旧制京都帝国大学工学部電気工学科出身で東北電力勤務の父と、福島市内で料亭を経営する母の間に生まれた。
小学5年生の頃から作曲をするようになり[1]、中学時代に作曲家を志望する[1]。中学卒業後は上京して開成高校に進学。高校卒業後は実家の家計が苦しくなったため、入学金を稼ぐために1年間の浪人生活を選ぶ。喫茶店のボーイ、ペンキ職人、バーテンダーなどで入学金を稼いだ。
1958年に日本大学芸術学部音楽科へ入学[1]。入学後は新橋[要曖昧さ回避]や銀座のキャバレーでバンド演奏のアルバイトを務め、ベースを担当。大学3年次の1960年に古賀政男が設立したプロダクションにスタッフとして採用され、事実上の門下生として師事。大学卒業後の1962年にビクターレコードと契約。
1964年、鈴木やすし『僕の手でよかったら』作曲家デビュー[1]。1966年に森進一のデビュー作にしてヒット作となった『女のためいき』を作曲、その後も森に『港町ブルース』『おふくろさん』『冬の旅』などの大ヒット曲を提供する。他にもテレサ・テン『空港』、藤圭子『京都から博多まで』『女のブルース』、水原弘『君こそわが命』、五木ひろし『千曲川』など、数多くのヒット曲を提供して成功を収めた。
1991年に19歳年下の一般女性と結婚し一子をもうけるも[1]、、1993年に肺がんのため死去した[1]。55歳没。晩年は坂本冬美、マルシアを弟子入りさせ、自らの家に住まわせて育成したことでも知られる。なお、猪俣は生前歌手だけでなく、里村龍一や冬樹かずみ等々、音楽作家の育成にも力を注いだ。